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【百貨店編⑳】最終章 横浜本館へ戻り、そして秋田へ帰る決断 

百貨店編・最終章 横浜へ戻り、そして秋田へ帰る決断

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秋田での4年間を経て、再び横浜本館へ

秋田での4年間を終え、私は再び横浜本館への異動を命じられました。
全国展開の企業では転勤は避けられず、社宅や寮が用意されるのが一般的です。経済的には確かに助かる仕組みですが、生活環境という点では秋田との落差が大きくありました。

秋田では2DKのマンションで、静かでゆとりのある暮らしを送っていました。
ところが横浜に戻ると、相模原のワンルームの独身寮。
大都市圏の慌ただしさ、住環境の窮屈さは、秋田での生活に慣れた私にはどうにも馴染みませんでした。

そして何より、秋田市にいる現在の妻と結婚したいという思いが強くありました。
地方での穏やかな暮らし、人との距離感、自分のペースを保てる日々。
そのすべてが、私の価値観を静かに、しかし確実に変えていました。

横浜に戻ったとき、私ははっきりと感じていました。
「この先、ここにいる理由はもう一つもない」
仕事としての横浜本館には誇りも思い出もありましたが、人生の優先順位はすでに変わっていたのです。

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秋田へ戻るための現実的な一歩

秋田へ戻ると決めたとき、次に必要なのは“再就職先の確保”でした。
そこで利用したのが、有楽町の交通会館にある秋田県のUターン窓口です。
ここはハローワークの出先機関で、県外在住者のための就職支援を行っています。私はまずここに登録するところから動き始めました。

登録から数ヶ月後、あるメーカーからリクエストが入りました。
送られてきた会社案内を見ると、全国展開のメーカーであり、ニッチな市場ながらトップシェアの製品も持っているとのこと。決してメジャーな企業ではありませんが、ブランド名は私も知っていました。

ただ一つ、大きな不安がありました。
私は流通小売の世界しか知りません。
相手は“建築設備”という未知の領域です。
果たして自分に務まるのか、正直なところ自信はありませんでした。

それでも、秋田へ戻るためには一歩踏み出すしかありません。
「ダメ元で応募してみよう」
そう腹をくくり、私は書類を送りました。

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東京本社、そして大阪本社での面接

面接はまず東京本社で筆記試験と一次面接を受けました。
その後、通過の連絡が入り、最終面接は大阪本社。
緊張はありましたが、面接官の質問は実務よりも“人となり”を見ようとするもので、意外にも落ち着いて話すことができました。

数日後、内定の知らせが届きました。
しかし、内定をもらったからといって即決はしませんでした。
私は心の中で二つの“賭け”をしていたのです。

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決断を後押しした二つの要素

一つは給与面。
提示された額は、現在の百貨店での給与をベースに算出されたものでした。
多少下回るものの、私の想定の範囲内であり、生活設計としては問題ないと判断できました。

もう一つは、現職での昇給・昇進の行方です。
秋田の事業に関わっていたのは私を含めて数人。その中で、私だけが昇進できなかった。
人事発表を見た瞬間、胸の奥で何かが静かに切れました。

「もう、この会社に自分の未来はない」
そう確信しました。

この二つの結果が揃ったとき、私は迷いなく決めました。
秋田へ戻る。
そして新しい業界、新しい仕事に挑戦する。

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百貨店業界での11年に幕を下ろして

こうして私は、百貨店業界での11年に静かに幕を下ろすことになりました。
退職を決めた当時、まさかその4年後に会社が民事再生法の適用を受け、経営破綻に追い込まれるとは夢にも思っていませんでした。

あの頃の私は、ただ自分の人生を前に進めるために秋田へ戻る決断をしただけです。
しかし振り返れば、あの時の選択は結果として“沈みゆく船から降りる”ことにもなっていました。

【次回予告】

こうして百貨店業界での11年間に区切りをつけ、私は未知の世界だった昇降機メーカーへ転職しました。

流通小売しか知らなかった私が、建築設備業界で何を学び、どのようなキャリアを歩むことになったのか。当時は想像もしていませんでしたが、結果としてこの会社には29年間勤務することになります。

次回からは「昇降機メーカー編」として、異業種への挑戦と、その後の歩みを振り返っていきます。