四方山話に時々音楽と高校野球

高校野球・浜省推し・スピリットは1980年代

僕の人生の今は何章目ぐらいだろう――吉田拓郎さんの歌に寄せて

僕の人生の今は何章目ぐらいだろう――吉田拓郎さんの歌に寄せて

こんなことを考えたのは、きっと好きな野球――ワールドシリーズも、日本シリーズも、高校野球の試合もない日だったからかもしれません。
静かな一日、ふと立ち止まって、自分の人生の“章”について思いを巡らせてみたくなったのです。さらに最近64歳になってしまいました。月日が流れるのは早いものです。

このタイトルに出会ったとき、胸の奥に静かに火が灯ったような感覚がありました。吉田拓郎さんが1998年、52歳のときに歌ったこの曲は、まさに“人生の現在地”を見つめる問いかけそのものです。

「どの辺まで来ただろう どの辺にいるんだろう」
――吉田拓郎「僕の人生の今は何章目ぐらいだろう」より

この歌詞に触れるたび、自分の人生もまた、いくつかの章で構成されてきたのだと実感します。私は今、第三章にいます。

第一章:芽吹きと出発の章
少年時代から新社会人としての歩み始めた就職。34年間、学び、働き、社会の中で自分の立ち位置を求めていました。この章は、人生の基礎を固めるための時間でした。

第二章:再出発と成熟の章
Uターン転職を経て、結婚さらに転勤。定年までの29年間を過ごしました。この章は、再び自分を問い直し、家族や地域との関係を深める時間でした。


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第三章:記憶を紡ぐ章(現在)
今は秋田と盛岡を行き来しながら、静かな暮らしの中で、過去の記憶をたどり、語り部としての視点を深めています。
仕事の比重は正社員の頃よりは軽くなりましたが、その分、人生の意味や“語ること”の重みが増しています。この章は、記憶と記録を未来へ橋渡しする時間です。

第四章:静かな余白の章(これから)
完全リタイア後、没するまでの時間。
まだ見ぬ章ですが、そこには静けさと余白、そしてこれまでの章を慈しむような日々が待っている気がします。

人生は、まるで一冊の本のようです。
ページをめくるたびに、風景が変わり、人が変わり、自分も変わっていきます。
ですが、どの章にも確かに意味があり、どの章も欠かせません。

吉田拓郎さんが歌ったように、「まだまだ日々は続く」。
後半戦に差しかかった今だからこそ、見える景色があります。
語り、記録し、誰かの記憶の扉をそっと開くような文章を、これからも綴っていきたいと思います。

🎵 参考リンク  
吉田拓郎「僕の人生の今は何章目ぐらいだろう」  
歌詞はこちら: 

吉田拓郎 僕の人生の今は何章目ぐらいだろう 歌詞 - 歌ネット