四方山話に時々音楽と高校野球

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独自地方大会開催のもつ意味

甲子園中止から独自地方大会開催へ

大会の意味合いはそれぞれ

大会自体もトーナメント方式で優勝校を決めるのか、エキシビションとしての要素が強いのか、無観客試合での開催なのか、まったくわかりませんが、とにかくコロナ禍で野球の試合ができることは有難いことです。

ベストメンバーで勝負第一で臨むのか? 全員3年生のスタメン、ベンチ入りで思い出として臨むのか?この大会に臨むチームと選手にとっても、意味合いはそれぞれのモノ。

ただ、この先に目標となる甲子園が無いだけに、特に最後の夏となってしまった3年生の選手にとっては、どのような形でも不本意なものであることは否めません。

大会開催の持つ大きな意義

一方でこの独自大会、何も関係のないただのおっさんの高校野球ファンから見ると、非常に重要な意味のある大会と思えてなりません。

それは、昨秋から既に公式戦の開催がない中での大会は、コロナ収束下での試合開催と途切れず野球が続いたことの証。ここで地方の独自大会が無事開催できれば、臆病な高野連も動かす大会になることです。

責任回避優先の高野連は今までの経緯から判断すると、次の秋の大会もセンバツもさらに来夏の選手権でさえ、リスクや責任を背負うことから逃げています。

今 届けられるのは、地方大会が開催しゲームができることの実績と証明。これでも秋の公式戦ができないと判断するなら、世間がこの組織を許さないでしょう。彼らは名誉職であるだけに、履歴書を汚すことこそがタブー。さすがに臆病でも重い腰を上げると考えます。

大きな役割を担う3年生

 この大会は次の公式戦、直近での秋の大会に繋げる意味あるものになること。各地方大会開催は新チームの秋の大会の開催、来夏の夏の大会への開催への分岐的にもなりえる重要な位置づけ。独自大会に参加する今年度の3年生は、大きな役割を担っています。

自らのプレーと姿と気持ちを、これからの後輩に引き継ぐことも、今までこんな状況下で試合をしたことは、長い高校野球の歴史の中でもありません。甲子園の舞台に立てなかったとしても、コロナ禍で中止決定の事態でプレーすることが心に届くこともあろうかと思います。

この独自の地方大会の中には、高校野球の持つ魅力、選手権が無い夏の虚無感、甲子園への希望と失意、ゲームやプレーに光と陰が入り交じります。無事開催されれば、高野連はこの度の決裁の是非を自ら振り返る機会にはなるかと。

ただ何があろうとも、心ならずも最後の試合に臨む3年生には、本人しか判らない葛藤もそれぞれある中での大会になることは言うまでもありませんが。

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