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「正しさ」の基準が変わった――秋田県職員の懲戒処分とオリンピック選手に見る、時代とのズレ

最近、秋田県職員に対する懲戒処分のニュースを見ていて、「時代が変わったなあ」と強く感じました。

今回の処分は、ホテルからバスローブ姿で記者会見を行ったことや、その後に県へ虚偽の説明をしたことなどを理由として、停職6カ月に加えて2階級降任という、非常に重いものでした。

もちろん、県職員として不適切な行動だったことは否定できません。

しかし、私にはどうしても、「そこまで重い処分なのだろうか」という疑問が残ります。


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私なら「停職1カ月程度」ではないか

テレビでは元知事のコメンテーターが、この件について「自分が知事なら停職1カ月」といった趣旨の発言をしていました。

私も、感覚としてはかなり近いです。

問題なのは、休日の過ごし方そのものというより、県職員として公式な取材対応をした際の姿勢と、その後の虚偽説明ではないでしょうか。

一方で、男女関係など私生活上の問題まで含めて、すべてを「県職員としての信用失墜」として重く処分することには、慎重であるべきだと思います。

「悪いことをしたか」と「どの程度の懲戒処分が相当か」は、別の問題だからです。

私は、今回の行為について一定の処分は必要だと思います。

ただ、停職6カ月に加えて2階級降任という処分は、重すぎるのではないかというのが率直な感想です。

「県の品位を著しく失墜させた」という難しさ

今回のような処分で難しいのが、「県の品位を著しく失墜させた」といった包括的な基準です。

こうした規定そのものは必要でしょう。

しかし、言葉の幅が広いだけに、運用次第ではかなり大きな処分の差が生まれます。

バスローブ姿での記者会見は、確かにインパクトがあります。

ネット上でも批判が集中したでしょう。

しかし、

「世間から強く批判された」

ことと、

「重い懲戒処分が法的・制度的に相当である」

ことは同じではありません。

ここは冷静に分けて考える必要があると思います。

世論は「9対1」くらいに見えます

私のざっくりした体感では、ネット上の反応は、

「処分が重すぎる」――1

「いや、当然の処分だ」――9

くらいに見えます。

もちろん、これは統計的な数字ではなく、あくまで私の感覚です。

ただ、SNS時代には、この「世論の圧力」が行政に与える影響は決して小さくないと思います。

県知事からすれば、処分を軽くして、

「なぜこんな職員を甘やかすのか」

と批判されるリスクがあります。

一方、重い処分にすれば、

「さすがに重すぎないか」

という批判はあっても、「身内に甘い」という批判は受けにくくなります。

その意味で、今回の処分には、SNSなどによって形成された世論を県側が相当に意識したのではないか――私はそんな推測をしています。

私は「擁護派」の1割側です

私は今回、世論の9割とは逆の側にいます。

ただし、「何をしても許せ」という意味ではありません。

私が言いたいのは、

「行為は問題だったとしても、処分は別に考えるべきではないか」

ということです。

もし本人が処分を不服として審査請求するのであれば、そこで初めて、感情的な世論から離れて、過去の類似事例や処分基準との比較によって、処分の相当性を検証することができます。

私は、そこまで進んだほうが、この問題はずっと建設的になると思います。

昭和なら、ここまで厳しかったでしょうか

この事件を見ていて、もう一つ感じるのが、「昭和の時代ならどうだっただろう」ということです。

昭和の政治家だけでなく、行政にも民間企業にも、今なら問題になりそうな「武勇伝」を持った人はたくさんいました。

「酒癖は悪いけれど、仕事をやらせたら凄い」

「無茶苦茶なことをするけれど、営業成績は抜群」

「上司には反抗するけれど、大きな仕事をまとめてくる」

そんな人物が、組織の中で一定の評価を受けていた時代だったと思います。

もちろん、昔のほうが良かったと言いたいわけではありません。

パワハラや不正などが見過ごされていた面もあります。

ただ、昔は今よりも、

「人間には欠点がある。それでも仕事ができれば評価する」

という余地があったように思います。

「全部アウト」の時代になった

今は逆に、私生活も含めて、公人や社会人に求められる振る舞いが非常に厳しくなりました。

しかもSNSによって、一つの失敗が瞬時に全国へ拡散します。

昔なら一部の人しか知らなかった出来事が、今では写真や動画付きで何十万人、何百万人の目に触れます。

その結果、

行為そのものへの批判

SNSで拡散

世論形成

組織への説明要求

厳しい処分

という流れが生まれやすくなりました。

これを見ていると、「時代が変わったなあ」と感じざるを得ません。

もう一つの象徴

この「時代の変化」を感じた出来事として、私は柔道の代表選手のパリ五輪での敗戦後の姿も思い出します。

試合に敗れた後、選手は激しく泣き、感情を抑えきれない姿を見せました。

私は正直、あの姿については批判的でした。

「人前に出る以上、もう少し毅然としていてもいいのではないか」

というのが私の感覚でした。

これは、おそらくある程度上の世代の人には理解してもらえる感覚ではないでしょうか。

ところが、ネットでは圧倒的に擁護されました

ところがネットでは、むしろ、

「それだけ頑張ってきたのだから泣いて当然」

「感情を隠す必要なんてない」

「人間らしくていい」

という擁護が圧倒的に目立ちました。

ここには、まさに世代による価値観の違いがあると思います。

昔は、

「人前では感情を抑える」

ことが美徳でした。

今は、

「努力してきた人が感情をあらわにするのは自然なこと」

という受け止め方が強くなっています。

これは単純に「若者が甘くなった」という話ではありません。

社会が求める「立派な人間像」そのものが変わったのだと思います。

「人間らしさ」には寛容、ルールには厳格

ここが、今の時代の面白いところです。

代表選手のように、感情をむき出しにすることには寛容になりました。

一方で、秋田県職員のように、ルールやコンプライアンスに関わることには、昔よりはるかに厳しくなっています。

つまり、

人間らしさには寛容になったのに、ルール違反には厳しくなった。

一見すると矛盾しているようですが、これが現在の社会なのかもしれません。

9割が正しいとは限りません

秋田県職員の件では、私は「重すぎる」と考える側の1割です。

代表選手の件では、ネットの9割とは逆に、「もう少し毅然としていてもよかった」と考える側でした。

ここで大切なのは、9割の意見があるからといって、それが必ず正しいとは限らないということだと思います。

もちろん、少数派だから正しいわけでもありません。

ただ、世論が一方向に大きく傾いているときこそ、

「本当にそうなのか?」

と一度立ち止まって考えることには意味があります。

「正しさ」は時代とともに変わる

秋田県職員の懲戒処分と、柔道代表選手の敗戦後の姿。

一見すると、まったく違う出来事です。

しかし私には、どちらも「時代が変わった」ことを感じさせる象徴的な出来事に見えます。

昔は、

「公の場では自分を律する」

ことが強く求められました。

今は、

「人間なんだから、感情を出してもいい」

という価値観が強くなっています。

その一方で、

「ルールから外れたら厳しく処分する」

という社会にもなりました。

だからこそ、今回の秋田県職員の処分については、単純に「けしからん」で終わらせず、行為と処分のバランスをもう一度考えてみたいと思います。

そして代表選手の件についても、「泣いてはいけない」と言うのではなく、なぜ自分はそう感じたのか、そしてなぜ今の世代は違う受け止め方をするのかを考えてみる。

「正しさ」は、時代とともにかなり変わってきました。

その変化を感じながらも、私はあえて少数派の側から、もう一度考えてみたいと思います。