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【昇降機メーカー編③】 閉じたOSの中で、私を救ってくれた人たち 

閉じたOSの中で、私を救ってくれた人たち

 


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 夏季休業明け、秋田営業所に初めて出勤した日

夏季休業が明けた朝、私は秋田営業所の扉を初めて開けました。盛岡での研修を終え、いよいよ本番の勤務地に立つ日です。ここで私は6年間を過ごすことになりますが、当時の私はその重さをまだ理解していませんでした。最初に感じたのは、地方拠点ならではの“狭さ”でした。机と机の距離が近く、電話の声も会話もすべて筒抜けになる。中小メーカーの出先に特有の、物理的にも人間関係的にも距離が近い空気がありました。

 THE 秋田のOSと、私のOSの違い

秋田営業所のメンバーは、県外勤務の経験がほとんどありませんでした。正に“THE 秋田”という空気で、価値観も仕事観も地元で完結していました。私のOSとは、振り返ればまったく違っていたのです。その象徴が、事務所の机に置かれた少年マガジンやジャンプでした。当時の社会人が読む雑誌といえば文春や新潮、せいぜいポストや現代。しかし、ここでは少年誌が当たり前のように読まれていました。差別ではなく、ただOSの初期設定が違うだけ。今ならそう理解できますが、当時の私は戸惑うばかりでした。

 営業は私ひとりという構造

さらに、営業担当は私ひとりでした。同じ視点で話せる相手がいないというのは、想像以上に孤独です。相談相手も、情報共有の相手もいない。価値観の違いがそのまま“距離”になってしまう。秋田営業所のOSと私のOSのズレは、日常の細部にまで影響していました。正直に言えば、この頃は転職を後悔した瞬間でもあります。

 私の会社の営業は「施工管理」が中心

私の会社の営業は、一般的な営業とは少し違っていました。顧客折衝よりも、現場の施工管理が中心になるのです。工程管理、段取り、他業種との調整、安全、トラブル対応──営業でありながら、現場の言語を理解しなければ仕事になりません。百貨店での経験や盛岡で学んだ商流OSとは、まったく別の世界でした。

 協力業者さんとの出会いが、私を救ってくれた

そんな中で、私を支えてくれたのは社員ではありませんでした。工事を担当していた協力業者さんたちです。素人同然の私に、現場の基本を一つひとつ丁寧に教えてくれました。どこが危ないか、どこで段取りが崩れるか、どこで他業種とぶつかるか。彼らは惜しみなく教えてくれました。

社員には昇給や昇進といった社内の利害があります。しかし、協力業者さんにとって大事なのは“現場が止まらないこと”。私が理解してくれたほうが、彼らにとっても仕事がしやすい。利害が一致していたのです。秋田営業所のOSとは合わなかった私ですが、現場OSの協力業者さんとは不思議と噛み合いました。

 人に救われて、私は6年間を続けられた

協力業者さんとの出会いがなければ、私はもっと早くこの仕事から脱落していたと思います。結果的に、私はいつも人に救われてきました。秋田営業所での6年間は、閉じたOSの中で苦しみながらも、人との出会いによって支えられた時間でした。あの時の協力業者さんたちがいなければ、今の私はありません。