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史家、猛暑に倒れる──それでも夏の甲子園を未来へ残す三球場構想の巻

史家、猛暑に倒れる──それでも夏の甲子園を未来へ残す三球場構想の巻

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史家、令和の夏に敗れる

時は令和八年、夏。

全国高校野球選手権の未来を語らんと机に向かった史家であった。

しかし、令和の夏は容赦がない。

気温三十五度を超える日差し。

球児たちの熱戦を追う前に、史家自身が暑さとの戦いに敗れ、冷房の前へ避難する始末である。

「昔の夏とは、もはや別の季節である」

麦茶を片手に、史家はつぶやく。

伝統ある夏の甲子園。

しかし、その舞台を未来へ残すためには、時代に合わせた知恵も必要ではないか。

そこで史家の頭に浮かんだ一つの構想。

名付けて――

「三球場開催構想」

である。


史家、甲子園へのこだわりを語る

しかし、ここで誤解してはならない。

史家は甲子園を軽く考えているわけではない。

むしろ、その価値を誰よりも知っているつもりである。

なぜなら、史家の出の、能代高校には忘れられない歴史があるからだ。

昭和三十八年。

能代高校は秋田県代表として夏の甲子園大会へ出場した。

しかし、その舞台は甲子園球場ではなかった。

この年は記念大会で出場校が増えたため、西宮球場も使用されたのである。

能代高校は初戦、そして次戦。

二試合とも西宮球場で戦った。

もちろん全国大会出場という栄誉に変わりはない。

しかし、地方の高校球児にとって「甲子園」という言葉は、単なる球場名ではない。

アルプススタンド。

聖地のグラウンド。

そして試合後に響き渡る校歌。

それこそが、多くの球児が夢見る瞬間なのである。

能代高校が初めて甲子園球場で校歌を響かせるまでには、昭和三十八年から平成四年まで、実に二十九年の歳月が流れた。

だからこそ史家は思う。

「どの代表校にも、一度は甲子園で戦う機会を残さなければならない」

と。


聖地は甲子園のまま、舞台を三つへ

三球場開催構想の第一条件。

それは、全代表校が甲子園を経験できることである。

全国四十九代表。

一回戦から登場する学校も。

二回戦から登場するシード校も。

初戦は必ず甲子園。

これならば、球児たちの夢も、応援する家族や地域の願いも失われない。

甲子園を減らす改革ではない。

甲子園の価値を守る改革なのである。


第二幕から始まる関西三球場物語

初戦を終えた後、大会は三つの舞台へ広がる。

甲子園球場。

ほっともっとフィールド神戸。

わかさスタジアム京都。

関西を代表する球場で、全国の強豪たちが戦う。

そして準決勝、決勝。

最後は再び甲子園へ帰還する。

優勝旗が舞う場所は、変わらない。


九回制を守り、暑さを避ける
史家が不思議に思うことがある。

暑さ対策の議論になると、なぜ試合そのものを短くする方向へ進むのか。

七回制。

確かに時間短縮にはなる。

しかし、高校野球には九回まで戦うからこその物語がある。

最終回の逆転。

最後の一球。

最後の打席。

そのドラマを残す方法は、別にもある。

試合時間ではなく、試合を行う時間帯を変えればよい。

午前一試合。

夜一試合。

三球場を使えば、可能となる。


関西全体が高校野球の舞台となる

三球場開催の魅力は、暑さ対策だけではない。

観戦文化そのものが広がる。

京都で高校野球を観戦し、その後に古都を歩く。

神戸で白球を追い、その後に港町を楽しむ。

甲子園だけでは生まれなかった旅の形が生まれる。

地方から訪れるファンにとって、高校野球観戦が関西を巡る思い出になるのである。


交通網という大きな味方

この構想には、関西ならではの強みがある。

伊丹空港。

京都、新大阪、新神戸の新幹線駅。

阪急。

阪神。

JR新快速。

地方から訪れる人にとって、三球場は決して遠い場所ではない。

関西という大都市圏全体が、一つの大きな高校野球会場になるのである。


史家、未来への一筆を残す

伝統とは、昔の形をそのまま保存することではない。

大切なものを、次の世代へ渡していくことである。

能代高校が西宮球場で戦った昭和三十八年。

そこから二十九年後、ようやく甲子園で校歌が流れた歴史。

その重みを知るからこそ、史家は甲子園にこだわる。

だからこそ提案する。

全校が甲子園で初戦を戦う。

その後は関西三球場で熱戦を続ける。

最後は再び甲子園へ帰る。

これこそ、伝統と未来を両立させる道ではないか。

……もっとも、本日の史家は歴史を語る前に猛暑との戦いに敗北し、冷房の風を浴びながら静かに休養中である。

歴史を記す者もまた、令和の夏には勝てぬのであった。