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秋田市の壁、その先へ──史家、こまちで県南決戦を待つ

秋田市の壁、その先へ──史家、こまちで県南決戦を待つ

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 夏空の下、史家と夫人はこまちスタジアムにいた

令和八年七月。
史家と夫人は、こまちスタジアムの観客席にいた。

夏空の下で行われる、大曲工業と新屋の準決勝。
打球が外野を抜け、歓声が沸き、県南の雄が得点を重ねていく。

 

その瞬間を動画に収めながら、史家はふと思った。
これは単なる準決勝ではない。
秋田県高校野球の歴史そのものが動いているのではないか、と。

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「一県一校制」から半世紀──秋田市勢が占めてきた決勝の中心

時は昭和五十三年。
高校野球が現在の「一県一校制」となった年である。

以来、およそ半世紀。
秋田県代表として選ばれたのは四十八チーム。

その歴史を振り返ると、一つの事実が浮かび上がる。
決勝戦の多くには秋田市の学校が存在してきた。

秋田商業。
秋田高校。
秋田工業。
金足農業。
秋田経法大附属、そして明桜。

県都の学校は長く秋田大会の中心に立ち続けてきた。

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秋田市勢不在の決勝はわずか六度

では、一県一校制以降、
「秋田市外の学校同士による決勝戦」は何回あったのか。

昭和五十三年 能代―本荘
昭和六十二年 能代商業―本荘
平成二十年  本荘―大館鳳鳴
平成二十六年 能代松陽―角館
平成二十八年 大曲工業―角館
令和八年   大曲工業―横手

半世紀近い歴史の中で、わずか六度。
割合にして一割強。
つまり九割近くの決勝には秋田市勢が存在していたのである。

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地方校が背負ってきた重圧と期待

秋田市外の学校にとって、
甲子園への道はまず県大会にあった。

その前に立ちはだかるのが秋田市勢だった。

かつて県内では、
「秋田市外は甲子園へ行けても勝てない」
そんな言葉すら聞かれた時代があった。

その言葉の是非はともかく、
地方校が背負ってきた期待と重圧の大きさは想像に難くない。

秋田市外の学校が甲子園へ出場しても、どこか実感が湧かない。

そんな声を史家は時折耳にする。

なんという秋田市中華思想であろうか。

だが、それは秋田市だけの話ではない。

人は誰しも、自らの住む街を世界の中心として生きている。

古代中国の皇帝がそうであったように。

神奈川県には横浜の中華思想があり、宮城県には仙台の中華思想がある。

そして秋田県には、秋田市の中華思想がある。古くからの市民の多くは地元のことを市内と呼ぶ。今日はどちらから来ました? 市内からです。こんなやり取りが日常だった。

令和八年夏。

その常識に異を唱えるかのように、決勝の舞台へ残ったのは大曲工業と横手高校であった。

歴史は時として、中心ではなく周縁から動き始める。

そして今年、秋田県高校野球の歴史もまた、県南から動こうとしているのである。

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秋田市外の夏の甲子園勝利──能代と能代商業の記憶

実際、一県一校制以降、
夏の甲子園で勝利を挙げた地方校は二校のみ。

平成四年の能代。
平成二十三年の能代商業。

市外校が全国の舞台で白星を挙げた記憶は決して多くない。
だからこそ、その勝利は長く語り継がれる。

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そして明日──県南決戦が新たな歴史を刻む

明日、大曲工業と横手高校が相まみえる。

どちらが勝っても県南の代表。
どちらが勝っても秋田市以外の学校。
そしてどちらが勝っても、秋田大会の歴史に新たな一頁が刻まれる。

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史家の願い──「秋田市の壁」の先にある全国の壁へ

史家は能代の出である。
だから秋田市外のチームに肩入れする部分があることは否定しない。

鹿角。大館。能代。本荘。角館。大曲。横手。

それぞれの街が甲子園を夢見てきた歴史を知っている。

だから願う。
決勝戦の先にある甲子園で、
県南代表が、秋田県代表が、
ぜひ白星を挙げてほしい。

半世紀にわたり続いた「秋田市の壁」を越えた先に、
今度は全国の壁が待っている。

その壁を越える夏になることを願いながら、
史家は明日の決勝戦を見つめているのである。