四方山話に時々音楽と高校野球

高校野球・浜省推し・スピリットは1980年代

1978年 夏の秋田大会決勝戦 能代―本荘 デッドボール判定が変えた試合の流れ

昭和53年夏・能代高校―本荘高校決勝戦  
八橋球場が刻んだ名勝負の記憶

 


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はじめての八橋球場で見た決勝戦

  
後年、秋田の高校野球史で名勝負の一つとして語られる昭和53年夏の決勝戦です。ちょうど私も高校生で、在学中の能代高校を応援するため三塁側スタンドにいました。はじめて足を踏み入れた八橋球場、そして初めて生で観戦した秋田大会の試合が、この能代高校―本荘高校の決勝戦でした。

球場全体に漂う独特の緊張感と熱気。スタンドの応援が波のように押し寄せ、試合前から胸が高鳴ったことを今でも覚えています。

【昭和53年決勝戦の経過】  
能代 3-2 本荘(昭和53年7月29日・八橋球場)

〈ランニングスコア〉  
本荘 000 000 020=2  
能代 000 003 00x=3

試合は5回まで両投手の投げ合いで無得点が続き、緊張感のある展開が続きました。そして六回裏、この試合の流れを決定づける場面が訪れます。

 

デッドボール判定をめぐる中断

 
秋田魁新報の記事によれば、六回裏、能代の高松選手の打席で、本荘の工藤投手が投じた内角球が身体に当たったかどうかで判定が割れました。球審は「当たっていない」と判断しましたが、能代側は「かすっている」と主張し、本荘側もすぐに反応して両ベンチが動きました。

この場面で審判団が集まり協議する時間が生じ、試合は数分間中断しました。参考資料では、この中断が「工藤投手の投球リズムに影響を与えた」と記されています。

工藤投手はそれまでテンポよく投げ込み、外角と内角を丁寧に使い分けて能代打線を抑えていました。しかし再開後、わずかに球が高めに浮き始め、能代打線がその変化を逃しませんでした。二死一塁二塁からの試合再開後、能代は連打から一気に3点を奪いました。本荘は8回に2点を返して追い上げ、さらに9回裏も二死ながら一塁二塁の同点機を迎えましたが後続の工藤投手は空振りの三振。

6回裏の3失点が最後まで重くのしかかりました。スコア以上に緊迫した、典型的な「一球が流れを変える」試合でした。

 

【能代高校・高松直志投手】

  
秋田魁新報「八橋球場の50年」では、高松投手のフォームと気迫が印象的に描かれています。右足を高く上げる独特のフォームから切れのある速球を投げ込み、本荘打線から12三振を奪う力投を見せました。この勝利で能代は二年連続の甲子園出場を決めています。

【本荘高校・工藤幹夫投手 】 

ここでは、私自身の過去ブログからの要約引用を記します。

昭和53年決勝の本荘―能代戦は、今も鮮明に記憶に残っています。私は三塁側スタンドで観戦していました。工藤投手は粘り強い投球で試合を作り、終盤の反撃を呼び込みました。この試合の価値が高まったのは、後に工藤投手がプロで活躍したこと、そして能代・高松投手の箕島戦での熱投があったからだと思います。

本荘高校は八回に意地を見せて2点を返し、試合を最後まで緊張感ある展開に導きました。後年、日本ハムで最多勝を獲得する右腕の片鱗が、この決勝戦にも表れていました。

 

あの日の八橋球場と、私の記憶

  
初めての八橋球場で、初めて観た秋田大会の決勝戦。能代高校の応援スタンドで生徒の一人として三塁側スタンドで目の前で繰り広げられた投手戦を見届けた経験は、今も鮮明に残っています。昭和の八橋球場の雰囲気、応援スタンドの熱気、そして能代の勝利。そのすべてが、私にとって高校野球という競技の奥深さを知る原点になりました。

 

昭和・平成・令和で見届けた能代市勢の決勝戦  


現在64歳になりますが、能代市勢の決勝戦を生で観戦したのは次の三試合です。

昭和53年 能代高校 - 本荘高校  
平成4年 能代高校 - 金足農業  
令和4年 能代松陽 - 秋田南

昭和・平成・令和、それぞれの時代で能代市勢の決勝戦を間近で見届けることができました。そして不思議なことに、私が観戦した三試合はすべて勝利しています。さて、次に能代市勢の代表決定戦をスタンドで見られるのはいつになるでしょうか。その日を楽しみに、これからも秋田の高校野球を見つめていきたいと思います。

 

【参考文献】
秋田魁新報「八橋球場の50年」第2部・熱戦ファイル

1991年12月25日・10面「判定をめぐり一時中断」