消えた能代市営球場──昭和36年、天覧準備が能代スポーツの覚醒点だったという視点
- 校友時報に残された「天覧準備」の一次資料
- 北羽新報社『戦後の証言―能代30年のあゆみ』が記録した「天覧当日の詳細」
- 昭和36年の天覧は、能代スポーツの“覚醒点”だったのか
- 一本の線でつながる能代スポーツ史


能代市営球場──消えたスタンドに残された“天覧”の記憶
能代市にかつて存在した「能代市営球場」。その名を今も覚えている人は、地元でも少なくなりました。球場は跡形もなく消え、案内板も記念碑もありません。しかし私には、子どもの頃に耳にした「ここで天覧があったらしい」という話と、バックネット裏に石碑のようなものがあった記憶が、かすかに残っています。
長い間、それは“昔の噂”のようなものだと思っていました。ところが先日、ネット上にあった能代高校の校友時報(昭和36年9月21日号)を読み返したとき、その記憶を強く裏付る資料が目に飛び込んできました。
校友時報に残された「天覧準備」の一次資料
紙面には、次のように書かれていました。
「天皇 皇后 両陛下ご来能は来月11日」
「市営球場においては、天覧席をバックネット裏のスタンド中央五段目に設けることはすでに決定」
「宮内庁待従、橋本同総務課長、東体協総務主事ら一行約四十名が能代市を訪れ、市営球場、市民体育館を細かく調査していった」
これらは、能代市営球場が昭和36年秋田国体において正式に天覧対象会場として準備されていたことを示す根拠です。
さらに、
「能代市では、少しでも多くの人が拝顔できるようなご日程を組んでいただきたいと要望した」
とあり、能代市が両陛下の来訪ルートに正式に組み込まれていたことがわかります。
北羽新報社『戦後の証言―能代30年のあゆみ』が記録した「天覧当日の詳細」
今回確認した一次資料は、北羽新報社『戦後の証言―能代30年のあゆみ』 に収録された記事です。
そこには、1961年10月11日、両陛下が実際に能代市営球場にご臨席された様子が克明に記録されていました。
「定刻きっかり、お車は能代一中の前を通って市営球場へ。ブラスバンドが君が代を演奏し、観衆が総立ちで万歳の声を上げた。陛下は帽子を振ってお応えになられた」
軟式野球をご覧になった際の陛下の言葉も残っています。
「軟式は硬式より危なくなくていいね」
「それに用具も安あがりだろうね」
これは、能代市営球場が準備された“だけ”ではなく、
実際に天覧が行われた球場であったことを裏付ける決定的証拠です。
さらに、球場出口では、大正10年に皇太子殿下と同じ艦に乗っていた能代の元機関兵たちが、40年ぶりに陛下と再会するという劇的な場面も記録されています。
能代市営球場は、単なる地方球場ではなく、国家的な記憶が刻まれた場所だったのです。
昭和36年の天覧は、能代スポーツの“覚醒点”だったのか
私はこの資料を読んだとき、ひとつの仮説がさらに強まりました。
昭和36年の天覧準備と天覧実施こそ、能代スポーツの覚醒点だったのではないか。
なぜなら、この出来事の直後から、能代のスポーツは一気に全国へ飛び出していくからです。
昭和30年代後半から始まる能代スポーツの躍進
昭和38年
能代高校が夏の甲子園に初出場。
昭和39年
新潟国体で能代高校が東邦高校を破り8強入り。
昭和42年
能代工業バスケット部が国体で全国制覇。黄金時代の幕開け。
体操では小野喬選手が東京五輪で選手宣誓を務め、能代体操は全国の象徴的存在でした。
体操、野球、バスケ──
能代は昭和30〜50年代にかけて、次々と全国の舞台へ飛び出していきます。
背景にあった街の空気と“誇りの揺さぶり”
当時の能代は木材産業の最盛期で、街に勢いがありました。
その中で、昭和36年の天覧は、街の誇りを大きく揺さぶる出来事だったはずです。
天皇皇后両陛下が来る
宮内庁が視察に来る
天覧席が設置される
市民が総出で迎える
この“国家的な出来事”が、能代という街のスポーツ文化に火をつけた可能性は十分にあります。
一本の線でつながる能代スポーツ史
昭和36年の天覧準備と天覧
→ 甲子園初出場
→ 国体8強
→ 能代工業バスケ全国制覇
→ 平成・令和のNOSHOの甲子園出場
これらが一本の線でつながっていくのを見ると、昭和36年の能代市営球場こそ、能代スポーツ史の“起点”だったのではないか。
消えた能代市営球場は、実は能代スポーツの覚醒点だったのかもしれません。
参考文献・引用資料
『戦後の証言―能代30年の歩み』
北羽新報社 編・発行(昭和52年刊)
能代高校校友時報(昭和36年9月21日号)