Facebookという“縁の棚卸し装置”について思うこと

最近、Facebookを使っていてふと気づいたことがあります。私にとってFacebookはもはや「交流の場」ではなく、“縁の棚卸しを静かに行う場所”になっているということです。
私はFacebookで積極的に交流するつもりはなく、投稿もブログ更新のお知らせ程度です。それでも、時折「知り合いかも」に表示される名前が、思いがけず昔の記憶を呼び起こしてくれます。
たとえば、小学校の同級生。名前を見ただけで「ああ、そういえば」と懐かしさがよみがえります。フォローするつもりはありませんが、ただその存在を知るだけで十分です。Facebookは、こうした“人生の地層”を静かに掘り起こしてくれるところがあります。
前の職場の同僚もよく出てきます。Facebookは職場のつながりを強く拾うため、相手が電話帳を同期していたり、共通の友人がいたりすると、こちらが何もしていなくても候補に出てきます。中には、仲良くしていただいた方もいますが、2012年から投稿が止まっているアカウントも多く、フォローしても反応がないこともしばしばです。それでも、私はそれを気にしません。むしろ「元気にしているだろうか」と静かに思い出すきっかけになるだけで十分なのです。
Facebookの名前表記も人それぞれで、漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットと実に多様です。私は初期登録の流れでアルファベット表記にしましたが、これが意外とちょうどよい距離感を保ってくれています。漢字だとどうしても生々しく、現実の名刺のような印象になりますし、ひらがなだと柔らかすぎる。アルファベットはその中間で、実名の信頼性を保ちながらも、必要以上に特定されない“静かな匿名性”があります。
そして何より、Facebookの年齢層が高くなっている今、この落ち着いた空気が私には心地よいのです。若者向けのSNSのような騒がしさはなく、承認欲求のぶつかり合いもありません。人生の後半戦を歩む人たちが、ゆるく近況を置いていく“養老会”のような雰囲気があります。私はその空気が嫌いではありません。むしろ、静かにブログを置いておくには最適な場所だと感じています。
Facebookが20年後も続くためには、今の30代を取り込む必要があると言われます。しかし私は、Facebookは無理に若者を追わず、「静かに置いておける場所」として成熟していくのではないかと思っています。人生の記録をそっと棚に置き、必要なときにだけ取り出す。そんなSNSがあってもいいのではないでしょうか。
これからも私は、Facebookでは交流を求めず、ブログ更新だけを静かに続けていくつもりです。読んでくださる方が少しでもいれば、それで十分です。そして、時折浮かび上がる昔の縁を眺めながら、人生の棚卸しをゆっくり続けていこうと思います。
NTTドコモ モバイル社会研究所の調査によると、
Facebookは60代の利用率が特に高く、
「家族や友人の近況を知るため」に使われる割合が最も多いそうです。
若者がInstagramやTikTokに移る一方で、
Facebookは“静かな近況共有の場”として定着しているというデータは、
私が感じている「養老会のような落ち着いた空気」と重なります。