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退路のない時代をどう生きたか──中年社員の転勤サバイバル記

退路のない時代をどう生きたか──中年社員の転勤サバイバル記


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 40代中盤から50代中盤までの約10年間、私は「どうすればクビにならずに生き残れるか」ばかりを考えていました。本来なら会社員として最も脂が乗り、経験も実力も充実する時期です。しかし、当時の私は前を向く余裕などなく、ただ嵐が過ぎるのを待つように日々を過ごしていました。

 当時の会社では、50歳を超えた社員に対して当たりが強くなる傾向がありました。年齢を重ねるほど扱いが厳しくなり、同世代の社員は年々減っていきました。転職市場も今ほど開かれておらず、退路が絶たれているため、辞めたくても辞められない。そんな空気が社内に漂っていました。

 象徴的な出来事として、営業車の扱いがあります。私が乗っていた社用車は走行距離が43万キロを超えていました。何度も買い替えを申請したものの、経営層の決裁で却下され続けました。ところが、私の後任者には新車が与えられたのです。合理的な理由のない不公平さを感じずにはいられませんでした。

 また、先輩社員の話も忘れられません。タイヤが磨耗して危険な状態にもかかわらず交換の決裁が下りず、仕方なく「毎月1本ずつ」タイヤを買っていたというのです。外から見ればコントのようですが、実態は企業の安全配慮義務を疑われてもおかしくない状況でした。

 そんな環境の中、私は転勤が続きました。しかも縁もゆかりもない西日本への異動です。今思えば、遠方への転勤辞令を出すことで私を退職に追い込む意図があったのかもしれません。しかし、私にはひとつ大きな救いがありました。単身赴任ではなく、妻と一緒に移り住むことができたのです。

 私は元々、首都圏から東北へUターンした経験があり、県外での暮らしにはある程度慣れていました。そのため、西日本への転勤も「知らない土地での生活」というより「また新しい場所で暮らすだけ」という感覚で受け止めることができました。会社の思惑がどうであれ、私にとってはそれほど苦ではありませんでした。

 むしろ、その転勤が思わぬ“ご褒美”をもたらしました。長年の夢だった「秋田県勢の甲子園での勝利」を、ついに生で観戦できたのです。夏季休暇を利用し、朝の第一試合。満員の甲子園で、能代商業が秋田県勢の夏の甲子園初戦13連敗を止めた大会に立ち会いました。さらに2回戦の勝利も自分の目で見届けることができました。

 帰り道、高松市の自宅へ向かう途中、淡路島のサービスエリアで仮眠を取りました。甲子園の熱気と歓声がまだ体に残っているような、不思議な満足感に包まれたことを今でも覚えています。あの瞬間は、転勤続きの10年間の中でひときわ強く輝く思い出になりました。

 その後、会社はあるグループ企業の子会社となり、労務環境は大きく改善されました。私は「救われた思いだった」と感じています。結果として63歳まで働き続けることができ、あの10年間を乗り越えた自分を、今では静かに誇りに思っています。

 振り返れば、あの10年は決して後ろ向きではありませんでした。むしろ、厳しい環境の中で自分を守り、家族とともに生き抜いた“耐久の時代”だったのだと思います。人生には、前に進むために身を低くする時期があります。あの10年間はまさにその象徴であり、だからこそ今の穏やかな日々があるのだと感じています。