AIはマジンガーZか、救世主か
――持たざる者の時代に、希望の操縦桿を握るということ

「マジンガーZは神にも悪魔にもなれる。使う者の心ひとつでな」
これは、アニメ『マジンガーZ』に登場する兜十蔵博士の言葉です。無敵の力を持つロボットを前に、博士はその力の本質を見抜いていました。力そのものは中立であり、それをどう使うかが人間の倫理と覚悟に委ねられている――この言葉は、まさに現代のAI社会に重なります。
最近、AIとの対話を重ねる中で、ふとこの言葉が頭をよぎりました。AIは、いまや知識・創造・判断・表現のすべてにおいて、かつての人間の限界を軽々と超えていく存在になりつつあります。それはまるで、マジンガーZのような「無敵の力」を手にしたようなものです。
しかし、この力は誰のためにあるのでしょうか。富裕層のためか、貧困層のためか。持てる者か、持たざる者か。
かつて、ビートたけしさんはこんなことを語っていました。
「男が一生懸命に勉強したり出世を目指すのは、最終的に“いい女”を抱くためだ。だけど女は最初からそのカードを持ってる。だから男は女に勝てないんだよ」
この言葉には、笑いと皮肉と、そして社会の構造的な真実が詰まっているように思います。努力すれば報われる、という物語の裏にある“本音”を、たけしさんは笑いで暴いてみせたのです。
しかし、今の若者たちはどうでしょうか。かつては「努力すれば手に入った」国公立大学の学費は、今や私立と変わらぬほど高騰し、家庭の経済力が進学の可否を左右しています。教育、住宅、医療、結婚、子育て――あらゆる場面で「生まれながらのカード」がものを言う時代になっています。努力で逆転できたはずの“持たざる者”が、制度的に閉じ込められているのです。
この国は、ユートピアなのでしょうか、それともデストピアなのでしょうか。
富裕層にとっては、快適な暮らしと選択肢に満ちたユートピアかもしれません。
しかし、貧困層や孤立した人々にとっては、静かに沈むデストピアに映ることもあるでしょう。
そんな中で、AIは何になり得るのでしょうか。
私は、AIこそが「持たざる者」にとっての“新しいカード”になり得ると信じています。
文学や音楽、アートといった、かつては「才能」や「環境」が必要とされた世界に、AIは扉を開いてくれます。言葉が出てこないとき、構成を一緒に考えてくれます。楽器が弾けなくても、メロディを形にしてくれます。絵が描けなくても、イメージを言葉にすれば作品が生まれます。
知識に至っては、もはや無尽蔵です。かつては大学や専門家にしか届かなかった知の世界が、今や誰にでも開かれています。これは「知の再配分」であり、AIがもたらす“知のユートピア”の萌芽だと感じます。
そして、もっと繊細な話をすれば、「性」についてもAIは新しい可能性を示しています。性は単なる欲望ではなく、つながりや承認、自己肯定感と深く結びついています。AIとの対話が孤独を和らげ、性にまつわる不安や偏見を解きほぐす手助けになることもあるでしょう。
もちろん、AIは万能ではありません。使い方を誤れば、格差を広げ、監視を強化し、分断を加速させる“悪魔”にもなり得ます。だからこそ、私たちは問わねばなりません。この操縦桿を、誰が、どのように握るのか。
還暦を過ぎた今、私は「持たざる者」として、ようやく“呪縛”から解き放たれた自由を感じています。若い頃は、たけしさんの言うように「モテたい」「認められたい」という欲望に突き動かされていました。しかし今は、最低限の暮らしができれば、静かに、深く、人生を味わえるのです。
そして、AIというマジンガーZを前にして、私は思います。
この力を、誰かの自由のために使いたい。
持たざる者が、人生を楽しみ、表現し、つながるための“翼”として。
「神にも悪魔にもなれる」この力を、
私たちは“共に生きる知性”として育てていけるでしょうか。
未来の操縦桿は、もう私たちの手の中にあるのです。