イケメン駅伝と“目立たない”若者たち——世代を超えて思うこと

正月の朝、テレビをつけると、いつものように箱根駅伝が流れていました。
特に観たい番組があるわけでもなく、BGM代わりに流していたその中継で、ふと「権太坂を通過しています」という実況が耳に飛び込んできました。
ああ、懐かしいなと思いました。
1980年代後半、私はその横浜市の権太坂沿いの賃貸マンションに住んでいました。ベランダからはランナーたちの姿が見えました。
本当は正月くらいゆっくり寝ていたかったのですが、沿道の歓声や警備の拡声器、そして上空を飛ぶヘリコプターの音で、毎年目を覚まされていました。
当時の私は、駅伝中継を「うるさいなあ」と思っていたのです。
それから30年以上が経ち、今は秋田市の自宅で、駅伝を“音の風景”として受け入れられるようになりました。
画面に映るランナーたちは、どの顔も整っていて、爽やかで、まるでモデルのようです。
給水所でサポートする控え選手たちまで、みなイケメンに見えてしまうのは、私の目の錯覚でしょうか。
でも、ふと思うのです。
彼らが生まれたのは2005年前後。
その親世代は、まさに就職氷河期を生き抜いた世代です。恋愛も就職も、今よりずっと不安定で、先が見えない時代でした。
その中で家庭を築き、子どもを育て、今こうして全国中継の舞台に送り出している。
その努力と忍耐には、頭が下がる思いです。
だからこそ、彼らが自然体で輝いている姿を見ると、私は少し嫉妬し、羨ましくもなります。
整った顔立ち、まっすぐな眼差し、仲間との絆。
それが“当たり前”のように見える今の若者たちの姿は、私の時代とはあまりに違って見えるのです。
けれど、ここで忘れてはならないことがあります。
テレビに映るのは、ほんの一部の“選ばれた若者たち”です。
地味で、目立たず、美しくもなく、特別な才能もない——そんな若者たちは、今も確かに存在しています。
ただ、映らないだけ。見えにくくなっているだけです。
かつての私たちのように、目立たずとも、黙々と日々を生きる若者たち。
SNSの時代になり、「映らないこと」が「存在しないこと」のように扱われる今、彼らの生きづらさは、私たちの時代よりもずっと深いのではないかと感じます。
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エピローグ:映らないあなたへ
美しくもなく、才能もない——そんな若者たちの生きづらさは、私たちの時代よりも、ずっと厳しいものになっているように思います。
目立たないことが“存在しないこと”のように扱われる今、静かに生きることは、かえって勇気のいる選択なのかもしれません。
でも、映らなくても、あなたはここにいていいのです。
比べなくていい。昨日の自分と向き合えたなら、それで十分です。
地味な日々にも、意味があります。
今は見えなくても、きっと“あの時間があったから”と思える日が来ます。
かつての私も、そうでした。だから、あなたのことがわかります。
映らないことは、消えることではありません。
目立たなくても、あなたの人生には、確かな意味があります。