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熊は“ゴジラ”か──有事としての獣害と人間の責任

最近、熊による襲撃が全国各地で相次ぎ、人的被害が連日報道されています。山間部だけでなく、住宅地や市街地にまで熊が出没し、警察や消防団、猟友会の対応にも限界が見え始めています。こうした状況を前に、私はふと「これはもはや有事ではないか」と感じるようになりました。

そして、思い浮かんだのは“ゴジラ”の存在です。フィクションの中で自衛隊が総力戦を展開するあの怪獣は、実は熊と構造的に似ているのではないか。そんな思考から、この文章を書き始めました。


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熊は交渉できない相手である

人間同士の争いであれば、話し合いや外交、妥協といった手段が存在します。しかし、熊はそうではありません。言葉も通じず、理性も共有できない。つまり、熊との関係性は常に「非対称」であり、人間側が一方的に対応策を講じるしかないのです。

この非対称性は、国際関係における「抑止力」の構造にも似ています。相手が“なめてかかってくる”状況では、一定の武力行使や強い対応が必要になる。熊が人間の生活圏に入り、食料を得ることが安全だと学習してしまえば、被害は加速度的に拡大します。

自衛隊の出動は法的に可能なのか

現行の法律では、自衛隊の活動は「防衛出動」「災害派遣」「治安出動」に限定されています。熊の襲撃は「武力攻撃」ではないため、防衛出動は適用外です。しかし、災害派遣の枠組みを拡張し、「自然災害に準じる獣害」として認定することで、自衛隊の限定的な出動は可能になるかもしれません。

映画『シン・ゴジラ』では、ゴジラを「特異生物災害」として扱い、自衛隊が災害派遣の名目で出動しました。このようなフィクションの中の処理は、現実の制度の限界を照らす鏡でもあります。

熊もゴジラも、人間が生み出した“災い”である

ここで重要なのは、熊もゴジラも、単なる脅威ではなく、人間社会が自然との関係性を誤った結果として現れた存在だということです。

ゴジラは核開発の産物として描かれ、科学の暴走や人類の傲慢さを象徴しています。一方、熊の襲撃も、森林伐採や餌不足、人間圏への侵入といった環境破壊の結果として起きています。つまり、どちらも「人間が生み出した災い」なのです。

私たちは、熊を敵として駆除するだけでなく、なぜ熊が人間の生活圏に現れるようになったのか、その背景にある社会構造や環境政策を見直す必要があります。

人は反省しなければならない

熊の襲撃を「敵」としてではなく、「自然からの問いかけ」として受け止めるならば、必要なのは武力だけではありません。記録し、語り、対話し、制度を再設計することこそが、真の抑止力になるのではないでしょうか。

人間は、自然との境界線を曖昧にしながらも、そこに住み続けています。その結果として現れた熊の襲撃を前に、私たちは「人間の責任」を問われているのです。

終わりに──語り部としての視点から

私は語り部として、現場の声を記録し、社会に語りかける役割を担っています。熊の襲撃という現象を通じて、人間社会の制度、倫理、そして自然との関係性を問い直すことは、語り部としての使命でもあります。

熊は“ゴジラ”かもしれない。そう考えることで、私たちは災いの本質に近づけるのではないでしょうか。

 

出動形態 法的根拠 熊・ゴジラへの適用可能性
防衛出動 自衛隊法第76条(武力攻撃事態) 熊は対象外。ゴジラも外国の武力とみなされない限り困難
災害派遣 自衛隊法第83条(災害対応) 熊による人的・物的被害が「災害」と認定されれば可能性あり
治安出動 自衛隊法第78条(治安維持)

熊が騒乱の主体とみなされれば可能だが、法的は曖昧

 

視点

ゴジラ
発生要因 森林伐採・餌不足・人間圏への侵入 核開発・環境破壊・人類の傲慢
対応手段 駆除・抑止・制度整備 自衛隊総力戦・国際対応・反省
象徴性 自然界の怒り・境界線の崩壊 科学の暴走・人類の業
教訓 共生の限界と再設計

技術と倫理の再考