四方山話に時々音楽と高校野球

高校野球・浜省推し・スピリットは1980年代

高校野球と表現の自由──誰の“保護”なのかを問い直す


f:id:nintamam36:20251012110442j:image

 

秋の連休、岩手県で開催された秋季東北大会。近場ではありましたが、今回は観戦を見送りました。理由は、高野連による「画像・動画のSNS投稿禁止」のアナウンスです。選手の保護を名目としたこの措置に、どうしても違和感を覚えたからです。

SNS投稿は、今や大会を盛り上げる重要な要素です。選手の躍動、家族の応援、地域の熱気──それらがリアルタイムで共有されることで、高校野球は単なる競技を超えた“記憶の共有空間”となります。しかし、高野連はそれを「保護」の名のもとに制限しました。

本当に守られるべきは、誰なのでしょうか。

 SNSが照らす“負の部分”とその意義

最近では、広陵高校のいじめ問題や、酒田南高校の寮内での暴力行為が報道されました。これらの問題も、SNSがあることで明るみに出た事例です。もし昭和の時代であれば、情報は一部の権力者に握られ、闇に葬られていた可能性もあります。犠牲となった選手や家族は、数知れないでしょう。

SNSは、単なる拡散ツールではありません。内部で是正できない構造的な問題に対して、外部からの声を届ける“社会的なセンサー”として機能しています。それを封じることは、現場の声を無視し、問題の可視化を妨げることにつながります。

高野連の論理と“オールドメディア”の限界

高野連は「選手の肖像権・プライバシー保護」を理由に投稿を禁止しています。しかし、実際の投稿の多くは称賛や応援であり、選手本人や家族も好意的に受け止めています。むしろ、プレーの記録は彼らにとって誇りであり、思い出でもあります。

一方で、高野連は旧来の新聞・テレビといったオールドメディアとの結びつきが強く、情報の管理や報道の統制に重きを置いています。SNSという“制御不能なメディア”は、既得権益を脅かす存在として排除されがちです。「選手の保護」を掲げながら、実際には組織の保身が優先されているように見えるのです。

社会の価値観との乖離

現代の社会では、個人の発信力、透明性、記録の自由が重視されています。選手や家族、観客は、記録を残し、共有し、応援することに価値を見出しています。高野連の方針は、現場の感覚や時代の空気と大きく乖離しているように感じます。

高校野球は教育の一環であるならば、透明性・説明責任・個人の尊重が不可欠です。表現の自由は、選手の尊厳や家族の思いを守る手段でもあります。「保護」と「隠蔽」の境界を見極め、教育的価値を再定義する必要があるのではないでしょうか。

最後に──誰のための高校野球か

高校野球は、ただのスポーツではありません。そこには、選手の人生の一部があり、家族の思いがあり、地域の記憶があります。表現の自由を制限することは、それらの価値を切り捨てることに他なりません。

高野連が本当に「選手の保護」を語るのであれば、まずは現場の声に耳を傾けるべきです。そして、時代の変化に適応し、教育的価値を再構築する勇気を持つべきだと感じます。