メールで飛び交う「申し訳ございません」の軽さ
「〇〇で申し訳ございませんでした」から始まるメールの文面。最近頻繁に見かけます。全然たいした事案でも無かったのに…謝罪の言葉を頂戴されるほどのことでも無いし、スルーしてくれてもいいような些細なメール。
これがたまにだったら気にもしませんが、これが1日1つ以上は必ずある始末。勿論内容が 苦情や催促してることでも無いし、おっさんの立場が上席ということでもありません。これ相手の側の目線に立つと、波風立たないうちに、とりあえず 謝っちゃえって…こっちは別に謝らなくていい事案なんですけど。
そして、言葉狩りする奴らも確かに存在して「すみませんでした」は上に謝罪する言葉ではないと揚げ足取り。正論が時と場合では冷淡な場合もあります。
本来のお詫びの場面とは
個人的に思うのは、「申し訳ございません」を使用する時は、結構な重大事案。1つ間違えば損害賠償にも発展しそうな過失や、心からお詫びが必要な出来事。
事案の責任を取らなければならない立場に追い込まれた時、さらに心からお詫びが必要な時、そして公式の謝罪会見。思い当たるのはこの3つくらい。
つまりメールや言葉で日常的に発信される「申し訳ございません」は、冒頭の挨拶でしかないことが理解できます。本人は申し訳無いと思ってないから発信できる軽い言葉。
謝罪の場面でも保身が最優先
一方で, 人は誰しも保身的なもので、事態が重大な時ほど自分のミスはなかなか認めたがらないものです。いつも責任の押し付け合いの責任転嫁ばかり。これが重要な上位ポジションの方ほど顕著になるのは、政治から身近なことまで皆が気がついています。
日常的なことで発生する様々なトラブル。関わった人からは、「ごめんなさい」「すみません」の一言もなく、ましてやあれだけ多用されている「申し訳ございません」など文章でも言葉でも全く無いことが多々あります。
これは謝罪の言葉が発信された瞬間に、自分の責任にされることが目に見えてるからであり、目指していることは保身の一点のみなのです。
辞任だけでは済まない不寛容な社会
さて、先日はこんな記事が
「辞任だけで終わらせてはいけない」と女性キャスターが宣い、連日、森喜朗氏の切り取り発言を報道し続けたNHK。だが同じ公共放送でもウ… | Twitterで話題の門田隆将さんのツイート
どこまで個人を追い込むつもり?インターネットの興隆から、今度は新聞・テレビがその存在を追い込まれる時代になろうとしているのに…。